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2006.07.27
少女のころ、秋桜は
<1994年9月「いのちのことば」表紙によせてに掲載された文章>
少女のころ、秋桜は私の花だと思っていました。私はとても孤独でした。両親は私をとても大切に育ててくれましたし、たくさんの友人もありました。親友と呼べる人すら持っていました。でも、私は孤独でした。
人はなぜ、何のために生まれて死ぬのか─目的がわからず、不安で空虚でした。 私は清く正しく美しく生きたいと思いました。そして、そんなふうに見せかけました。でも、そうすればするほど、私の心の奥底に罪があふれて苦しくなりました。 ─生まれてきてすみません。
太宰治の小説が好きでした。ヘッセやゲーテ、リルケの詩集の中に身を寄せました。そこに、私と同じ孤独を生き、人生の哀しみを感じている人の姿がありました。 秋風吹いて秋桜咲いて・・・・・・私もこの花のひとつのように、ただ咲いて散って、だれに知られることもなければ・・・・・・本気でそんなことを願っていました。
以前から教会へ行ってみたいと思っていましたが、足を運ぶに至りませんでした。そんなころ、同じように生きることに躓いていた文芸部の先輩が、私に聖書を贈ってくださり、教会へ誘ってくださいました。彼は、私が淡い恋心をいだいている人でした。
それは、十七歳のころでした。教会で私は、今までだれも教えてくれなかったことを聞き、私の人生の空しさを埋めてくれる何かがあることを直感しました。自らの力できよくなろうと苦しんでいた私に、その必要はないし、またできない、そのためにイエス様が身代わりとなって死んでくださったのだから、悔い改めながら生きればそれでよいのだと。
私は牧師先生にいろいろな質問を浴びせながら、イエス様の存在を確信し、その次の年、一九七六年十二月二十四日に洗礼を受けました。残念ながら、私を導いてくださった先輩は受洗にまで至りませんでした。 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道者一二・一、協会訳)。 このみことばの重さが、当時の私にはよく理解できませんでしたが、家庭をもち、育児をしている今、それがどんなに大切かということを、深く思わされています。
秋になると、わが家の小さな庭にも毎年こぼれ種で、あふれるように秋桜が咲いてくれます。あのころと変わらず、ずっと大好きな花です。でも今は哀しい花ではなくなりました。少女のころ、秋桜は私の花だと思っていました。
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