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2006.07.20
紫音<しおん>神様から与えられた子供 II
紫音<しおん>神様から与えられた子供 II は1994年小出麻由美氏の執筆で、いのちのことば社より発行され、現在は絶版となっています。問い合わせ多数により、今回ブログという形で皆様の元にお届けすることになりました。ブログ I の続編です。*********************** さて、私の状態は、それから出産まではとても順調で、妊娠8ヶ月を過ぎた頃から松葉杖も必要でなくなり、普通に歩けるまでになりました。出産も普通分娩にて臨めるということでした。
私は、初めての出産ということも手伝って、不安でいっぱいでしたが、紫音のために一針一針心を込めてパッチーワークのおくるみを作りながら、その日を待ち望んでいました。
6月8日、出産の日。
その日は朝から雨が降り続いていました。紫音が生まれる頃、窓の外は篠つくような雨で、私はベッドの上で雨音を聞きながら、陣痛というものを経験していました。
私は願っていた女の子を与えられました。その子は元気に産声を上げ、手足がちゃんとありました。大きな黒い瞳で私を見つめてくれました。
私は涙が止まりませんでした。それまでの経緯を御存知だった産婦人科の先生も、ねぎらいの言葉をかけてくださいました。
今までの重圧感から解放された私は、初めて母親になれた喜びをしみじみと味わっていました。
しかし、その喜びも束の間でした。
同室の人達は次々と授乳のために赤ちゃんのもとへ出かけていくのに、私にだけはいつまでたってもその呼び出しがありませんでした。
不安な中で2、3日が経過していきました。
その間に、私を訪ねてくださる教会の方々や友人達の態度も自然でないことに気付きました。
「おめでとう」と言葉をくださっても、変にぎこちなかったり、逆に明るすぎたりするのです。
主人も自分は同意していなかった紫音という名で、私の知らぬ間に出生届を済ませてきているのです。それは、後で聞いたことですが、紫音の命は2、3日だと宣告されていたためでした。せめて名前だけでも私の望んでいたものにとの主人の精一杯の優しさでした。
子供のことを尋ねても、目をそらせて、黄疸が出てミルクを吐くからとしか
教えてくれません。
「もしかしたら死んでいるのかもしれない・・・・・・。」そんな予感を抱いて私は黙って紫音のいる病室へ出かけていきました。
突然私を目にした看護婦さんの驚きようだけで、紫音の状態はあまりよくないという察しがつきました。ガラス越しでしか会えませんでしたが、保育器の中の紫音は出生時とはまるで異なり、わずか3日で透き通るような青白い肌をしていました。そして両腕には私が一番恐れていた紫斑がいくつも現れていました。
———やっぱり、白血病なんだわ・・・・・・。少し覚悟はしていたものの、事実を知った時は失意のどん底でした。
まだ痛みの残る体で、病室まで帰る廊下がほど遠い距離に思われ、ベッドにたどり着くのがやっとでした。その途中、主人のすぐ傍らを通り過ぎたのに、私は全く気づかないほどでした。
それでも体だけは元気で母乳も順調に出るので、3、4時間ごとに搾乳しなければなりません。出生時の赤ちゃんには母親のお乳が何よりと聞いていましたので、とにかくそれを飲んで元気になってほしいと思い、そのことだけを支えに体力をつけようと思っていました。
紫音の容体は、ちっともよくはなりませんでした。私は神様に不満を述べ、生きる望みも失っていました。
我が子を亡くすということは、世間ではよく耳にする話ですけれど、我が身となると、それは耐えられないほどの苦しみであることがよくわかりました。たとえ我が子の姿を見ることのない流産であったとしても、それは、どんなに大きな悲しみであるかということも悟ることができました。
紫音が死んだら、私も死のう・・・・・・。不信仰でしたが、ふとそんなことも脳裏をかすめました。いつでも、どこにいても、ガラスケースの中に寝ている小さなかわいい紫音の痛々しい姿が私から離れませんでした。心電図のピッピッという機械音も常に耳もとに残ったままでした。できることなら、ずっとそばについていてやりたいと思いました。あとわずかの命と知れば、なおさらです。でも、それは許されないことでした。
1週間経ち、胸の引き裂かれるような思いで、私はひとりで退院しました。幸い病院は、当時、私が住んでいたマンションの裏にあり、9階の窓から紫音の病室の窓が小さく見えました。そのことが、せめてもの慰めでした。
私は、いつもいつもその窓辺に佇んで、紫音が生きていることだけを願い、涙ながらの祈りを捧げていました。
夕暮れが近づくと、紫音の病室の灯が一段と明るく輝きました。空は薄紅色に淡く染められた美しい夕焼けに変わり、だんだんとその彩も深い群青に溶けてゆき、闇夜へと化してゆきます。
私がこんなにつらく苦しくても、自然界は何の変化もなく美しく存在する。そのことが余計に無情に感じられ、神様のなさることすべてが信じられませんでした。
いつ果てるとも知れない我が子を思い、泣きました。いつも鉛を胸にのせているような重く息苦しい日々が続きました。眠っている時間だけが唯一のやすらぎでしたが、搾乳のために、3、4時間ごとに起きなければなりません。
いくつもいくつも、冷凍の母乳パックを作り、紫音のもとに届けました。
1番つらかったのは、それを届けるとき、元気な母子のいる授乳室を通らなければならないことでした。しあわせな母親達は、元気いっぱいな赤ちゃんを抱いて授乳をし、次から次へとうれしそうに退院してゆきます。一方私は、いつ果てるとも知れぬやせ細った血の気のない、保育器の中の小さな赤ちゃんに、飲んでもらえるかどうかもわからぬ母乳を届けに通うだけです。ただ、涙をこらえることだけがやっとでした。
「神様、なぜですか。いつになったら、この苦しみを取り除いてくださるのですか。どうか早く紫音の命を助けてください!」私は母乳を届けた後、ひとり部屋で泣きながら嘆願の祈りを捧げていました。
でも、このようなつらいときでも、聖書の中にはこう記されてあります。
あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。
神は真実である。
あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、
試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるので
ある。
コリント人への第1の手紙10章13節
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
テサロニケ人への第1の手紙5章16—18節
どんな困難なときにも、神様のなさること(御計画)を信じて、そのことを感謝して祈ってゆくと、状況が変えられると、以前読んだ『賛美の力』(マーリン・キャロザース著、生ける水の川)という本を思い出しました。
私は自分の感情に反し、意志でその祈りを捧げることを始めました。「神様。このこともあなたの御計画と信じて感謝します。でも、みこころでしたら、一時も早くこのつらさを取り除いてくださり、紫音を助けてください」と。
そうしていくうちに、奇跡が起こったのです。私の心に———私は、奇跡とは、神様が紫音の病を即座に癒してくださることと思っていたのですが、神様はまず、私の心のあり方に働きかけられたのです。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。
わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
ヨハネによる福音書14章27節
神様はこのような言葉で私に語りかけてくださいました。そして、いつの間にか、私は少しもつらくも悲しくもない自分に変わっていたのです。それどころか喜びすら感じるほど心が穏やかにされており、それは本当に不思議な経験でした。主人ですら、そんな私を見て、気が触れてしまったと思ったほどなのですから。
それからは、元気な母子を見ても、喜びを抱いて紫音に会いにゆけるようになり、しあわせな気持ちで紫音を抱いて子守歌をたくさん歌ってやることまでできるようになっていったのです。医師や看護婦さん達からは、こんな気丈なお母さんは見たことがないとまで言っていただきました。
紫音の治療は続けられました。生命が危機に直面すると輸血がおこなわれ、何度かそれが繰り返されました。心臓にも、心室中隔欠損症といって、大きな穴が開いたままの状態です。現在の医療では直る見通しはほとんどありませんでした。
やがて季節は、冷たい空気が金木犀の香りを含む大好きな秋になりました。紅い曼珠沙華が咲き、秋桜の花も、あちらこちらで秋風に揺られていました。少しずつ、少しずつ紫音が元気になっている気配がみられましたが、いつまでこの状態が続くのかわからず、私の心の奥は、やはり時折不安に包まれました。
教会では、秋の特別伝道集会のための準備がなされていました。それは、イエス様のことを知らない人たちをお招きして、わかりやすく聖書のお話をする集会です。
そこで、とてもうれしい出会いがありました。
そのときに講師としてお招きした先生は、中川健一先生とおっしゃって私が事故で入院している間、キリスト教のテレビ番組の中で私を励まし、支えてくださった方でした。中川先生は、長い入院生活で教会に行けなかった私の、病院での礼拝の説教者となり、いつも画面の中でまるでイエス様のように私に語りかけてくださいました。そんな先生に直接お会いし、お話をうかがえる日が現実になるのです。私は、まだ完全に理解できなかった今の苦しみが癒されるかもしれないという希望を抱いて、その集会に出席しました。
当然、先生の方では私の名前すら知る由もないのですが、ある姉妹が私達のことを事前に話してくださっており、私達夫婦は先生に個人的にお祈りいただき、強い希望をいただく機会に恵まれることができました。
「小出さん、あなた達、今、本当につらいかもしれない。でも、いいですか。神様は、いたずらにあなた達を苦しめたりはなさらない。あなた達にとって1番の幸いに至るためのことしか御計画されていないのですよ。ですから、どうか落胆しないで、信じて進んでください。今はつらいかもしれないけれど、そうすれば必ず祝福がありますよ。必ず!」
それはとても強い語調でした。
私は喜びの涙があふれて止まりませんでした。今の苦しみも神様の大きな御計画のひとつだということがはっきりと理解でき、感謝の気持ちでいっぱいになりました。その後も何度か先生とお話しさせていただき、僭越ながら先生のテレビ番組の出演依頼までいただいたのですが、そのことに関してまだ心にゆとりもなく、主人との一致もなかったのでお断りしてしまいました。
でも不思議なことに、それから10年の歳月が流れ、私の友人が中川先生の番組のアシスタントとなり、先生に再会する機会に恵まれ、再度、出演依頼をいただいたのです。今度は心から、今のこの感謝の気持ちを、同じように苦しんでいらっしゃる方々にお話しして、神様のことをお伝えしたいと思いましたので、お受けすることができました。
ちょうど、いのちのことば社から出版している小冊子の表紙絵と、それにちなんだエッセイで、神様のことを伝える仕事をさせていただいておりましたので、番組ではそのこともお話しさせていただきました。
正直言って、神様の御用のためのイラストより、一般の出版界で仕事をすることを望んでいたのですが、中川先生に出会ってお話を伺ったとき、きっぱりと神様のために描こうと決意することができ、それを誓いました。そして今があるのです。
絵と同じ位、文章を書くことも好きでした。両方の好きなことをしながら神様のためにお仕えできて、本当にしあわせだと思っています。そして、それは、紫音が生まれてくれたからかなった私の夢なのです。
秋も深まってゆく中で、紫音の状態は驚くほどよくなってゆきました。もしかしたら退院できるようになるかもしれないほどに。
愛と熱意をもって紫音の治療に専念してくださった小児科の先生は、全くの奇跡だと、ただ驚かれるばかりでした。徐々に回復にむかっている紫音の状態を見ても、先生は、一生無菌室で生活を送ることしかできないと宣言しておられました。
でもその紫音の、直る見込みのなかった白血病が奇跡的に直り、退院への希望は現実のものとなったのです。紫音が私達の家に帰ってくることができるのです!この喜びをどう表現したらいいのかわからないほど、私達は興奮していました。死んでしまっていたはずの私達の子供が帰ってくる。家でミルクを与え、家でオムツも換えられる。それは本当に夢のような出来事でした。
紫音が生まれた6月から、5ヶ月近く経過していました。朝夕はもう肌寒さすら感じる季節になっていました。