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2006.07.20
紫音 神様から与えられた子供 I
「紫 音 神様から与えられた子供」は1994年小出麻由美氏の執筆で、いのちのことば社より発行され、現在は絶版となっています。問い合わせ多数により、今回ブログという形で皆様の元にお届けすることになりました。 ***********************
紫音
———神様から与えられた子供
小出麻由美
シオンの娘 かたれかし
わが命の主に
野辺にてか 幕屋にてか
会いまつらざりし
賛美歌 527番3節
初めて聞いたときから大好きな賛美歌でした。この歌詞のシオンという響きにとても魅かれ、子供が生まれたらそのように名付けようと密かに思っていました。秋に咲く薄紫の優しい花、紫苑もとても好きでしたので。
そして、聖書の中でもシオンという言葉が何度も出てきますが、それはエルサレムの宮殿の建てられた聖地ということでした。
私は結婚してから2年後に、願いどおり紫音と名付けることのできる娘を身ごもりました。そして、それからしあわせに満たされ、充実した日々を過ごすはずでした。
ところが、やっと心臓が確かめられる形になった妊娠3ヶ月の我が子を超音波診断で確認し、つわりという初めて味わう不快な気分の中でも、足どり軽やかに帰路をたどっていたときのことです。
わが家を目の前にし、あと少しで渡りきってしまうはずだった青信号の横断歩道に、突然右折車が、私の姿に気付かず飛び込んできたのです。
私は両手でおなかの子供をかばいながら、頭から地面にたたきつけられ、一瞬にして身動きひとつできぬ体にされてしまったのです。
強度の全身打撲、顔面を3針縫う裂傷、そして骨盤を2箇所骨折という、それは流産しなかったのが不思議なほどの重いけがでした。
運転者と同乗者のお2人の方は、私の安否を気遣い、そばにあった総合病院へすぐに運び込んでくださいました。夜8時位でしたが、偶然にも医師会が開かれており、すべての専門の先生方がそろっておられ、私の治療は、迅速に滞りなく進められました。
そして、私はそのまま重症患者として入院することを余儀なくされてしまいました。
仕事をしていた主人にもすぐに連絡が届き、慌てて駆けつけてくれました。が、けがは、彼が思ったよりはるかに重く、愕然としてしまったようです。
教会の牧師先生御夫婦と友人夫妻もすぐに見舞ってくださいましたが、あまりにも突然な出来事に、2人の婦人は私の枕もとでもただ涙を流すばかりでした。私の方が不思議に感じるほどに。
それは私のけがの状態がかなりひどく、最悪の場合には、左足を切断しなければならないかもしれないと知らされていたからでした。当然おなかの子供も、無事に生めるとは考えられないことでした。
そんなこととはまるで知らない私は、流産しなかったことに深く安堵し、そのことが大きな慰めとなり、けがの痛みも薄らいだのでした。堕胎しなければならないかもしれないなどとは、夢にも思っていなかったのです。
産婦人科へも数回通い、やっと与えられた子供でした。
色々な検査が繰り返され、足の切断は免れたものの、骨盤骨折を直すために2つの方法からどちらかを選択しなければなりませんでした。
ひとつは牽引という、長期間足を引っ張って自然治癒を待つ方法。ただし、それはけがの状態により、完治するとは言きれず、元どおり歩けるようになるという保証がありません。
もうひとつは手術で切開して、金属を入れ矯正し、治癒した段階で再度切開して金属を取り出すという方法。この方法だと短期間でほとんど完治するものの、おなかに子供がいると、麻酔や薬が投与できず、手術は不可能ということでした。
そこで初めて主人から、堕胎のことを打ち明けられました。
それまでにも色々な決断をして、私は25年間生きてきましたが、こんな苦しい決断は生まれて初めてでした。
ひとつの命が私の返答如何でどうにでもなるのです。本当に恐ろしい決断で、神様を知らなかったら乗りきれなかったことだと思います。
「神様どうか、子供を助けてください。」
私は、ただひたすらに祈りました。
しかし私の願いとは異なり、両親達や親戚、医師達は、手術を選択して堕胎することだけを勧めました。ことに私の母からは、今回はあきらめるようにと泣いて乞われました。それは、私の体のことを思ってくれたのはもちろんですが、妊娠3ヶ月という胎児にとって最も重要な時期に、母胎が強度の衝撃を受け、放射線を何度か浴びたことにより、子供が白血病や色々な障害を持って出生する確率がかなり高くなるということからでした。
でも、おなかの子供は、確実に成長を続けていました。周囲の状況とは無関係に、私のおなかの中で健気に息づいていました。
そんな命を、まるで野の花を摘み取るが如く、人間の意志で摘み取ってもよいものなのでしょうか。私にとって子供を拒否することは、自分の人生を否定することと同じでした。主人は私の体も心配でしたし、私の子供への強い思いと周囲の反対の板挟みになり、途方にくれていました。私達は心を合わせて神様にお祈りしました。それしか方法はありませんでした。
そんな中で私は、以前、私を導いてくださった大分の教会の牧師先生がお話ししてくださったことを思い出しました。
真の信仰とは、水面に浮く木の葉のように、その揺れ動くまま、神様に身
を任すことである。
私は、自分の祈りが極めて自己中心的なものであったことに気付かされました。また、子供を生みたいという思いも、実は自分の願望のみで自我であったこと、それに、周囲の反対に対抗する思いも強くなっており、心が穏やかでなくなっていることにも気付いたのです。
私は、心落ち着かせ、それからの祈りを改めました。
「神様、すべてあなたにおゆだねします。もし、この子が私にとって必要でない命とお思いでしたら、あなたにこの子をお返し致します。でも、もし、必要な命なら、どうぞ私の体を牽引によって速やかに癒し、おなかの子供をお守りください。」
子供の命に対する自我が消え、神様にのみゆだねきれたことに、深いやすらぎが生まれました。
手術を決断する前にすでに牽引により治療していましたが、尿毒症という症状が出る可能性が高いことも知らされており、それが出ると私の体が危機にさらされるので、否応なしに堕胎して手術を受けなければならないことも告げられました。
先の祈りを捧げてから、私はそのことも素直に受けいれられる心準備が整っていました。
手術をするかどうかの最終的な返答はもう少し待っていただくことにして、私は神様からの決断をいただきたくて、聖書を読み、祈り始めました。
教会の方々にも、そのためにお祈りしていただきました。このときほど、クリスチャンの方々の存在をありがたく思ったことはありませんでした。
私は思春期の頃、人はなぜ、何のために生まれて死ぬのか目的がわからず、人生の虚しさを覚え、文学の中に身を寄せ、苦しんでいました。そんなとき、同じ文芸部で同じように苦しんでいた先輩に教会へ誘っていただき、17歳のときに、イエス様を知り、生きる意味と価値を見出すことができました。が、教会生活というものが、正直言って苦痛でした。群れというものがいやで、ひとり自由に生きたかったのです。でも、イエス様は、教会につながっていなさいと強く教えておられます。そこで、心の中にいつも葛藤がありました。それは、ずっと解決されないまま10年近くの歳月が経っていました。
そんな中で事故に遭い、そこで初めて、他人の命のために祈ってくださることのできる教会の方々の存在というものを知りました。このときほど、教会につながっていたことをうれしく思ったことはありません。それから今日まで、教会へ行くことが喜びとなり、毎週日曜日には欠かさず礼拝を捧げ、木曜日にも小さな婦人の集いに出席し、神様の愛、神様を中心とする交わりの素晴らしさを感じて過ごしています。
さて、それから数日後、背後の篤い祈りの中で、私は守られ、紫音を生むことをはっきりと決意できるみことばを聖書の中から見出すことができました。それはイザヤ書という箇所からでした。
陶器が陶器師と争うように、
おのれを造った者と争う者はわざわいだ。
粘土は陶器師にむかって
「あなたは何を造るか」と言い、
あるいは「あなたの造った物には手がない」と
言うだろうか。
父にむかって
「あなたは、なぜ子をもうけるのか」と言い、
あるいは女にむかって
「あなたは、なぜ産みの苦しみをするのか」
と言う者はわざわいだ。
イザヤ書45章9、10節(教会訳、以下同様)
この聖書のみことばが、神様が直接語りかけてくださったように、私の心に明確に響き、深く残りました。
依然として周囲の反対は変わりませんでしたが、私の心の中には神様から示された確信が生まれ、揺るぐことはありませんでした。同じ時期に主人も生む方向へ考えるように神様から導かれ、私達は教会の方々に祈られながら、そのみことばを信じて進むことを決意しました。そのときに大分の教会の牧師先生が、「もし子供が障害を持って生まれたとしても、愛をもって育てられるように」と、祈りの中に加えるよう指示してくださり、それから私は毎日その祈りを神様に捧げたのでした。
今から思えば、その祈りもイザヤ書のみことばも、後の私のための準備そのものでした。
さて、それから私の体の方は、驚くほど回復にむかい、尿毒症も出ることなく、手術も一切せずに、牽引のみで完治していきました。
そして、妊娠6ヶ月に入り、目立ち始めたおなかで松葉杖をつきながら、心待ちにしていた退院の日を迎えることができたのです。
2ヶ月半もの長い入院生活でしたが、うれしいことにその間、毎日、どなたかが必ず訪ねてくださり、とてもしあわせな日々を過ごさせていただきました。病室には、大好きな花がいつも絶えることなくあふれるほど届いて、まるで小さな花園にいるようでした。そこでポプリまで作っていたほどなのですから!
もちろん、私は1ヶ月半位、身動きひとつできない状態だったのですが、とても優しい付き添い婦さんに恵まれ、何ひとつ不自由なく本当にしあわせでした。それに加害者の方とその奥様は、毎日1度は病室をのぞいてくださるほどの誠実な優しい方で、それだけでもう充分償っていただいたように思っております。
教会の方々は、みことばで私を勇気づけてくださいました。足の不自由だったある姉妹(教会ではクリスチャン同士、兄弟姉妹と呼び合って共に親しんでいます)が雨の中でも、私を訪ねてくださり、切に祈ってくださった姿は生涯忘れることはないでしょう。
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。
イザヤ書30章18節
彼女は、このみことばを私に贈ってくださり、そのことを信じてお祈りしていますとおっしゃいました。そして、今、本当にそのとおりになりました。
ほかにも、私の病院食を楽しみに訪ねて明るく力づけてくださった元気な姉妹、クリスマスが病室だと味気ないからと、小さなガラスのクリスマスツリーを持ってきてくださった素敵な姉妹、病室に泊まって介護してくださった看護婦さんの優しい姉妹、お弁当やおかずをよく作って運んでくださったお料理の上手な姉妹、洗濯物をしょっちゅう届けてくださった献身的な姉妹、甘い香りの美しい洋梨を飾ってくださった兄弟、好みのうるさい私のために探し歩いて、とびきり素敵なガウンを見つけてきてくれた親友、そして、大好きな大切な私の友人達、お便りをくださった方々、今は天に召されてしまった深い慈愛に満ちた宣教師のカネラ先生、私の愛して止まなかったクリスチャンの佐藤さん老夫婦、それからいつも切に祈って訪ねてくださった私の教会の長沢先生御夫婦、大分の大滝先生御夫婦、多くのクリスチャンの方々、親戚の人達、義姉、妹、弟、両親達・・・・・・。
そしていつも大変忙しい仕事の中で、献身的に私を守り支えてくれ、たくさんの深い愛を注いでくれた、私の大切な主人。
———もし、先で彼との間に危機がきたら、このときのことを思い出して赦してあげよう・・・・・・。そういう不謹慎なこともちらりと脳裏に浮かんで苦笑するほど、彼は尽くしてくれたのでした。
病室のお掃除をしてくださるおばさんが、朝、夕必ず訪ねる主人を見て、「あなたは本当にしあわせね。私は長い間病院に勤めているけれど、こんなに優しい旦那さんは見たことないわ。大切にしなさいよ」と、おっしゃってくださいました。本当にそう思います。
私は、結婚するのなら絶対クリスチャンの方、と、固く決意して青春時代を過ごしていました。
デザインスタジオに勤めているとき、まだイエス様のことを知らない今の主人と出会いました。彼は私が導くまでもなく、聖書を読み、神様の存在を知り、洗礼を受けました。そしてすぐにプロポーズを受けたのですが、私はイラストレーターになる夢を捨てきれず、色々な事情もあり、踏みきることができませんでした。けれども祈っているうちに、結婚することが神様の御心にかなったことだと思えたので、素直に彼の愛を受けることができました。そして、それが本当によかったと思っています。
もう12年の歳月が流れましたが、今でもそれは変わっていません。